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2003年12月29日月曜日

ベトナム 友好親善の旅 2003.12.23~29  

 ベトナムに行った。普通の旅ではなかった。日越友好協会滋賀支部準備会の企画によるまさに友好と交流の旅であった。  ホーチミン市では、戦争証跡博物館(War Remnants Museum)、ツーズー病院平和村を、ハノイでは、平和村(戦争で障害を持った子供達の施設)を、タインホアでは、小学校と中学校を訪問し、日越友好協会の人々との交流することがメインの旅だった。当初五人の人が参加する予定だったが、直前になって二名が欠席し、参加したのは三名だった。しかし、友好協会の積み重ねのおかげで、たった三人の一行をどの場所でも大歓迎していただいた。

  ベトナムは、歴史の中でずっと異民族の征服の連続であった。現在のように主権国家として存在した時期は短い。近代では、一八六二年にフランスにコーチシナの割譲、一八八四年トゥヌル条約締結によりフランスの植民地となった。一九四〇年には、日本軍によるベトナム侵攻が開始、日本軍によるインドシナ半島支配が始まった。一九四五年の日本軍の降伏により、ベトナムの独立宣言となるが、同年フランス軍のサイゴンを占領し、翌年ベトナム戦争が、はじまる。一九六五年フランスにかわって、アメリカ軍事介入。ベトナム戦争が全土に拡大 泥沼化。一九七五年北ベトナム軍のサイゴン占領により終了。この間、ベトナムは南北に分断され、ベトナム人同士で殺し合うという悲惨な戦争であった。

 特に悲惨だったのは、ゲリラの抵抗に手を焼いたアメリカ軍が、ゲリラの潜むジャングルを焼き払うために枯れ葉剤を使用したことであった。南ベトナムとラオス、カンボジアの一部におびただしい枯葉剤(農薬)が米軍によって 散布された。その目的はジャングルを破壊して解放軍の隠れ家をなくすこと、水田を破壊して解放軍の糧を断ち、抵抗をなくすことにあった。アメリカ国防省の報告によれば、七千二百万㍑の有毒な化学薬品一七〇㌔㌘のダイオキシン(枯葉剤)を空中散布したのであった。。わずか七〇gのダイオキシンで東京都が破壊出来るとのことで、その分量の規模がいかに大規模であったかが推測できる。今アメリカがイラクにあったとされる大量破壊兵器を捜しているわけだが、アメリカはそれをすでに使用しているのである。ベトナム戦争では約三〇〇万人の人が死に、約四〇〇万人の障害者が生まれたそうである。そして、枯れ葉剤の影響は今なお続き、生まれる子供の一.七%が奇形児(一九九八年)である。
  そういうことで、戦争証跡博物館では、おびただしい数の展示物に圧倒された。すべて実物の戦車、爆弾、銃器である。資料によれば、ベトナム戦争で使われた爆弾の総量は、約七メガトン(七〇〇万トン)である。第二次大戦で使用された爆弾の総量は、広島・長崎の原爆を加えても三メガトン(三〇〇万トン)であった。いかにベトナム戦争が悲惨なものであったかということだ。

  この博物館の見学には、すごいおまけがついていた。副館長のバンさんには面会の約束ができていたのだが、その場には、一人の中年の小柄な女性が同席した。彼女は、戦争でゲリラの一人として戦い、捕虜になり、五年間にわたり、戦争が終わるまで収容された人だった。そして、自らの体験を一時間にわたり私たちに詳しく語ってくれた。胸には腫瘍ができ、目を背けたくなるのだが、笑顔はきれいな人だった。捕虜としてむごたらしい拷問を繰り返された結果、身体はぼろぼろになり、女性としての機能は喪失してしまった。外国人を前にして、自らのことを語るのはこれが初めてだと言うことで、なおさら感動してしまった。 

 ツーズー病院は、産婦人科総合病院(九一〇人収容)で、ベトナム戦争の枯れ葉剤の影響を受けた重い障害を持つ子供達が入院している病院である。「ベトちゃんドクちゃん」もいる。パム・ビェット・タン副院長が迎えてくださった。ちょうどクリスマス・イブで、子供達が庭に集まり、ボランティアの大学生二〇名とパーティをしていた。私もサンタクロースになって、子供達にプレゼントを配るという楽しい役割をさせてもらった。同行の他の二人の人たちも、子供達に「大きな歌」を教えた。驚いたことにみんな反応がよく、すぐに覚えて一緒に輪唱ができた。ドクさんは、もう二三歳になり、松葉杖を使ってだが、元気に子供達の間を飛び回っていた。タン副院長の部屋に彼のコンピュータの席があり、ふだんは、コンピュータを使って病院の仕事をしているそうだ。ベトちゃんは、病室にいた。寝たきりの状態であった。音の出るプレゼントを渡してあげると、かすかに微笑んだように思えた。私には忘れられないクリスマスイブとなった。

  タインホアは、ハノイから車で南へ三時間のところにある小さな町。そこにある日本と深い縁のあるディエンビエン第2小学校を訪問し、一時間日本の歌や折り紙などを紹介する授業をして小学五年生の子供達と交流することができた。翌日には中学校も訪問し同様の交流をした。ベトナムは、五・四・三の学年制で、施設が少ないので、午前・午後の二部制だ。高校進学率はそう高くない。
  しかし、英語のレベルは日本より高そうだ。中学一年の子供が英語でちゃんとした質問をしてきた。この中学を訪れた外国人は私たちが初めてだそうだ。興味深かったのは小学校でも中学校でも休み時間、写真をとろうとしたら、三人とも手に手にノートや紙とボールペンを持った子供達に囲まれた。サインをしてくれというのだ。先生が制止してくれなければそのサイン会は休み時間を超えて続いていたかもしれない。ちょっとしたスターになった気分だった。

  この旅で、念願のフォー(ベトナムうどん)が食べられた。とてもおいしかった。ぜひ、またベトナムを旅したい。そして、今回撮った写真を出会った人たちに渡したい。