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2011年12月4日日曜日

石堂寺(いしどうじ)

同寺のリーフレットより
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石塔寺崎縁起
聖徳太子は、仏法興隆のため近江に四十八の寺院の確立を発願されましたが、石塔寺は、その満願のお寺で、もとの名を本願成就寺と称しました。
 但し創建後次第に衰退し四百年後の平安時代、比叡山の寂照法師が、長保五年に入宋留学し清涼山にて修行中、琵琶湖の東辺に阿育王塔が埋もれている事を宋僧より聞き、手紙に記して日本へ送ります。その後、播州、増位山の義観僧都がこの手紙を入手し、時の帝一条天皇に奏上いたしました。帝の勅命により、この辺りの探索が行われ、野谷光盛という武士が、山頂に不思議な塚を見つけます。阿育王塔は、この中かと 帝の勅使 平恒昌と共に発掘したところ土中より大塔が出現いたしました。
 一条天皇は、大変お喜びになり、七堂伽藍を新たに建立され、寛弘三年 寺号を阿育王山石塔寺と改められました。その後、当山は隆盛を極め、八十余坊の大伽藍を築き寺領も広範囲に拡大します。
 鎌倉時代になりますと、参拝の方々が、ご自身の極楽往生のため、または、ご先祖の菩提を弔うために、仏舎利塔である阿育王塔の周りの霊域に、五輪塔や石仏を奉納されるようになり、その後、数百年の間に多くの数になりました。
 織田信長の元亀の兵火等により、伽藍等は焼失し全山荒廃しましたが、江戸時代初期、天海大僧正の弟子行賢によって現在の寺領の部分が復興されました。
  江戸時代以降にも石塔石仏の奉献は引継がれ、阿育王塔はじめ、無数の石塔石仏は、往時の人々の信仰の深さを伝えています。










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